一切の為の覚醒:坐禅贈物:聖性
誰でも坐り、涅槃に安住し、法を見、一切に奉仕し救済できて、個人的にも、社会的にも、環境的にも聖、調和、健康、幸福になれる。
誰でも坐り、禅の四状態を進み、個人的にも、社会的にも、環境的にも感情、意欲、輪廻と苦から救われることが出来る。
誰でも坐り、慈、悲、喜、捨の四無量に住し、時空何処でも輪廻苦から逃れ、一切に奉仕し救済することが出来る。
誰でも坐り、無量寿、無量光、無量解、無量愛を味わい、一切に奉仕し救済し、時空の無限世界で一切の宝を確保出来る。
2024共通年11月9日
註:
1.禅はゼロ(suñña/śūnya:空)に帰り、業にある覚醒状態より更に目覚め覚醒しており、聖(全体健全)と無量(慈悲喜捨の四無量参照)と再結合する十全な活動である。
2.Religion(宗教)はラテン語religare (再結合)に由来する。だから、宗教は罪(sin = 分離、分離病患, cf. a-sun-der, sundry)から聖(holiness = wholly wholesomeness 全体健全、参照 Rudolf Ottoの宗教の定義:the Holy)に再結合することである。
3.エゴやエゴ集団の小さく分離した泡沫から無限の生命の大会の聖性に再結合するのは誰でもの又普遍宗教の目標であるが、 Mitra, Mithra, Metteya, Maitreya, Mazda, Massiah, etc(友を意味する)で表されるように、一切の必要の時の友は真の友として生きることであり、無量寿、無量光、無量解(脱:解放)、無量愛を生きるものである。
4、鍵となる静坐の実践は業を静め、涅槃(nir-vāṇa = ni-vāta: no-wind, 無風、業風の)に安住し、法を見、一切に奉仕し救済する。坐禅(静坐瞑想)は身体・呼吸・頭脳(身口意)業を整え静止する。四禅は、尋求、伺候、喜悦、安楽を静め平静 (upekhā/upekṣā, 字義は捨離)・涅槃に到達する結果の心的(知性・感情・意欲)業を静止する過程を表示している。
「今何故仏教か?」の4(涅槃)と5(禅)を参照:
5.輪廻 (saṁ-sāra, 字義は全‐流)は縁起の故に現象が全体/常時変化することで、生死(発生種滅)で代表される。通常人間、畜生、餓鬼、(修羅)、地獄、天上の五(六)状態/道を変化を経る。これらは私達の刻々の心‐境(境涯:心‐世界)の比喩的状態のことで、死後に生まれるものというヒンドゥー教の考えとは違う。
「今何故仏教か?」の3.生存とは何か?を参照:
6.涅槃は(貪瞋痴で染汚した業の)無風を意味するが、そこで人は静謐・明澄・統制・注意状態で法界を直証し諸法の法に初めて無明長夜から目覚めて、問題と苦に対する四聖諦、八聖道で般若(の知恵:処方)を得る。
業の無風は二根(渇愛と無明)を静止してその結果の苦(四苦八苦など)と輪廻 [地獄、餓鬼、(修羅)、畜生、人間、天上の五(六)道(界)] を静止する、即ち輪廻・苦から自由になる(解脱・解放)。そこでは業による動揺が無く(不動、不死:甘露: amṛta)、我他彼此などの分別・束縛から自由になり(無・空・無我・無量:無量寿・無量光・無著・無碍など)、真理世界(法界、仏界、極楽、浄土)を現観し、迷・惑から自由になり、大局観・甚深・微妙な世界(法身、真実人体)を覚るなど涅槃による正法に眼を開き、無数の功徳を得る(正法眼蔵涅槃妙心)。
「今何故仏教か?」の4.涅槃とは何か?参照
7.四無量(四梵住)は慈(愛:友情:mettā, 与楽)、悲(泯:karuṇā. 抜苦)、喜(悦: pīti)、捨(離:upekkhā/upekṣā)である。
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